ロックファンだった私が生まれて初めてアイドル・欅坂46にハマり一年間追いかけてみた話(1)
そもそも私は"アイドル"というものの生態を理解できない人間だった。
幼い頃に流行っていた可愛くてポップなアイドルグループも、ある程度歳を重ねるとまったく注目しなくなってしまったし、そんな頃周りで流行り始めたジャニーズグループなんかは、顔が整っていることこそ理解できても結局それだけで、ときめいたり心が動いたりすることはなかった。
私は"音楽が趣味"であると自負する(今になって思えば)視野が狭く斜に構えた浅いロックファンだったので、作詞作曲自分でやってなんぼでしょ、握手アイドルとミュージシャンを「J-POP」で一括りにすること自体無理があるんだわ、と根底に偏見があった。後者に関しては今でも同じようなことを思っているが、それはまた別の話になってくるので割愛する。
とにかく私は、"アイドル"とは無縁の人間だった。
というのに、2019年は気が付いたら、その"アイドル"と呼ばれる女の子たちの背中を追いかけて全国行脚する生活を送っていた。
2019年の総括として、大袈裟でなく私の人生を変えてしまった存在、平手友梨奈さんと欅坂46の話をさせてください。
結論から言えば、私はアンビバレント新規で、まだまだ歴の浅い部類である。
欅坂46の存在は知っていた。"ロック好きからも愛される唯一無二の秋元グループ"のような感じで、話題に上がることが多かったからだ。実際当時のロックファンは、「アイドルはダサい」という感覚はもう古くて、「アイドルの中に眠るロックなビートを発掘できてこそ通」みたいな暗黙の了解が蔓延り始めていたように思う。(先に付け足しておくと、私は別に欅坂をロッカーとして愛しているわけじゃない。)
まあそういう流れがあって、MVを見る機会は何度かあった。サイレントマジョリティー、二人セゾン、不協和音、ガラスを割れ! などなど。カッコいいね、可愛いね、と思った。それだけだった。
社会人デビューを果たしてからそこそこ長い私のような世代は、まずもって欅坂46の楽曲のターゲット層からは外れている。当時の、自己投影することで感情を揺らそうとする私の聴き方では「青臭いな」とか「言わされてんな」という印象があまりにも強すぎた。それに加えて、音楽は曲単体で勝負するものという歪んだ先入観によりMVは流し見程度だった。でも、「風に吹かれても」ではセンターの女の子がとっても可愛い眼鏡の男の子に変身していて、なんだか好きで、気に入って見ていた。平手友梨奈、という名前を、私は多分そこで覚えた。
平手友梨奈という人を個として認識したことで、欅坂46は星の数ほどアイドルグループがある中で私にとって少し距離の近い存在になった。新曲が流れてきたら見たりとか、たまたまつけた音楽番組に出てたらとりあえず見てから用事するとか、欅ちゃんって言われたら、あー知ってる、センターの子かわいいよねって答えるとか。心の間口が開いていた。
そんな中で見たFNSのノンフィクションは、この子なんなんだろう、すごいな、と思ったし、2017年紅白の不協和音は祈るような気持ちで見守って、その後メンバーがどうなったのか記事を調べたりした。そのとき持っていた別ジャンルのSNSアカウントで、平手ちゃん大丈夫かな、とつぶやいたりもした。
そんなくらいのにわかのにわかを極めながら、数ヶ月過ごした。話を遮ると、我ながらあのノンフィクションや和音のタイミングで沼に落ちなかったのは未だに謎ではある、悔いてもいる。でもなんかどうしようもない。こういうのってタイミング。
時を戻そう。
ファンになったきっかけは本当にふいなことで、SNSでフォローしていた欅坂46公式アカウントから新曲「アンビバレント」が流れてきたから。軽い気持ちで見た。息を止めた。もう一度見た。何度も見た。信じられないくらい心を奪われた。頭を殴られたような衝撃だった。
イントロから気だるげにも軽やかにも見えるダンスを繰り広げながら、レンズの向こうを嘲笑い、睨みつけ、かと思えばそんなものを物ともしない態度で駆け抜けて行く。確かにあのとき眼鏡を掛けて笑顔で踊っていたあの女の子。愉しげなのにどこか冷たい眼差し。隙のない最適解の緩急で、ジグゾーパズルが完成していくみたいにピタッとはまる気持ちの良いダンス。静謐で獰猛。脆弱で強か。けたたましく儚い。とどめに、協調性の乏しい私が人生で普遍的に悩んできたことそのもののようなアンニュイなリリック。釘付けだった。動揺した。
慌てて他のMVを見た。中でも特に目を奪われたエキセントリックのMVが幸い比較的わかりやすかったので、メンバーの顔と名前を覚える教材にして、一週間足らずで暗記した。MVの解説ブログなんかを読んで、インタビューやヒストリーなんかも勉強して、W-KEYAKIZAKAの詩でぼろぼろ泣いたり、避雷針見たさに風邪に吹かれてものシングルを取り寄せたり、それを皮切りに全CDを集めたりして、あっという間に私の生活は欅坂一色に染まっていった。ライブはもうその時には取れそうなチケットがなくて、丁度全国ツアーの最中だったのでとても凹んだことを覚えている。欅坂の情報が少しでもたくさん欲しくてTwitterアカウントを作ったり、まとめブログを片っ端から読み漁ったりもした。あっという間にみんなのことが大好きになった。
そして、知れば知るほど平手友梨奈さんに惹きつけられてやまなかった。とにかく今の平手友梨奈さんに一刻も早く追いつかなければ、と必死だった。
平手友梨奈さんは、不思議な人だった。
初期の映像を見ている限りでは、とても愛くるしい振る舞いで、アイドル然とした優等生アイドルで、あんなににこにこしていたのに、ある時期を境に覇気がなくなり、俯きがちになり、休みがちになり、表情は虚ろに憔悴していった。――若いとは言え、ステージに立たせて良いのかどうか、本音を言って疑問を感じてしまうほどに。そして公式に語られることがあまりにも少なく、こちらとしてはその理由を憶測することしかできず、結果飛び交う「推測だらけの伝言ゲーム」(エキセントリックの歌詞より引用)がファンの擁護派と否定派をより一層対岸に追いやっている。正直言って、決して健全とは言い難い構図がそこにはあった。
とはいえ、実際時系列に沿って追いかけてみれば、そこには過密なスケジュールとか、行きすぎたファンへの疲弊とか、怪我の連鎖とか、やむを得ない複数の事情が絡み合っていることは容易にわかる。そしていつなんどきも平手友梨奈さんは反論も弁解もしない。その姿は、腹を括っているとか肝が据わっているとかいうのではなく、心を閉ざしているように見えて苦しかった。この子にとって、テレビの向こうの世界は全て敵なのだろうか、と勘ぐりさえした。ファンになることが、応援することがかえって彼女を苦しめやしないかどうかと悩み、けれどもそう思えば思うほどどうしようもなく吸い寄せられていく自分に気が付いた。
彼女はいつも心を剥き出しにして生きてきたのだろうか。他人に嘘を吐かず、己を欺かず生きていくほどしんどいことはないのに。思春期というただでさえ多感な時期に、多分ふつうよりも鋭く張り巡らせたセンサーに苦しめられながら、味方さえ敵に見えてしまうような臆病さで、時として心を殺して、それでも舞台に立ち続けている。世界がスクリーン越しの虚像のように乖離して見えてしまうほどに。けれども、あの態度が怠けなんてものじゃないことはちょっと真面目に向き合えばすぐにわかることだ。
なにもかも嫌なんだと訴えるような目。世界も周りの人間も、恐らくは己自身がいっとう疎ましいのだと叫びながら、それでもその奥で静かに炎が燃えていた。彼女が戦い続けたのはまぎれもなく自分自身なのだろうと思う。
彼女に、生きている実感を得て欲しいと強く思った。
彼女の体の中で息を潜めているのであろうあまたの感情に、救われてほしかった。
だから響があってくれて本当によかったと思ったし、その時にポツリポツリと吐露された彼女の心情に胸が締め付けられる思いだった。
平手友梨奈さんは怪物などではない。彼女は怪物にならなくとも、きっと感情を表現するすべを持っているし、あなたはあなたのままで何かを訴えることができる。当時、たった十七歳だった女の子。
在宅期間がほとんどだった2018年。それでもこんな具合で、響があり、バラエティに出る平手友梨奈さんの姿があり、年末は神経をすり減らしたりもしたけど、好きだと思う気持ちは落ち着くどころか膨れ上がる一方だった。
2019年は幸いスケジュールの融通がききやすい年だったこともあって、あちこちの現場に行くことができた。次の記事では、備忘録としてその内容を書き留めたい。
1)大阪アニラ
2)武道館アニラ
3)欅共和国
4)長濱ねるちゃん卒イベ
5)夏の全国アリーナツアー
6)9th選抜再導入
7)東京ドーム公演
8)「角を曲がる」
9)9th発売延期
10)年末歌番組ラッシュ
いつかこの思いを言葉にしてまとめたいと思っていたけど、想像以上に難しい。でも、少しずつ。お粗末様です。
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